易経で自分らしさを磨く

~『易経カード』を人生のシグナルに~

「地名を革める」

〇「今日の易占から」

  • 今日の易占は「沢火革」の「上爻変」で、昨日と全く同じ形になりました。 
  • 昨年の8月からスタートして、初めて二日続きです。
  • 革(あらた)めるべきは速やかに革め、仲間とともにめざす目的・目標に向かいます。
  • 本日のテーマは、「地名を革める」とします。

 

〇「地域を楽しむ」

  • 当地・四條畷の地名は、幾多の変遷を経て、今日の「四條畷市」という自治体名に至っています。
  • 近代史を振り返ると、1888年明治21年)の「町村制」の施行時に、当時の讃良郡に属していた南野村・中野村・蔀屋村・清滝村・逢坂村・岡山村・砂村の7カ村が合村を上申し、1889年(明治22年)4月から「甲可村」と称することが承認されています。
  • また当時、ゆかりの小楠公・楠正行を祀るための神社の創建を求める地元関係者の運動が稔り、1889年(明治22年)7月の神社建設段階までは「小楠公神社」と称していたところ、同年末に明治政府から「別格官幣社」の社格が与えられ、翌1890年(明治23年)4月から「別格官幣社四條畷神社」が鎮座したわけです。
  • このことは、当地域に革命的なインパクトをもたらしました。その最も重大な出来事が、約40年後の1931年(昭和6年)12月、甲可村議会が決議した「四條畷村」への名称変更です。
  • その40年の間には、浪速鉄道の四條畷駅をはじめ、府立四條畷中学校(旧制・現在の四條畷高校)、四條畷警察署、四條畷郵便局が次々と開設されていました。

 

〇「観る力を養う」

  • 本日のテーマ「地名を革める」から、当地・四條畷の近代史の一端を思い起こしています。
  • さて、その後「四條畷村」は、1947年(昭和22年)7月の町制施行により「四條畷町」となり、1961年(昭和36年)東部地域・田原村の合併を経て、1970年(昭和45年)4月から「四條畷市」がスタートします。
  • 市制施行に合わせて、まちのシンボルとなる「市章」のデザインも現在のように革められました。
  • (私の個人的な思いですが)残念ながら、この「市章」の形や説明からは、当地域の歴史性や特性をあまり感じ取ることはできません。

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    シンボルマーク(左:四條畷町/右:市制施行後)