〇「今日の易占から」
- 今日の易占は「山火賁」の「四爻変」でした。
- 「賁」(ひ)は美しく飾る。見栄を捨てて中身の充実を心掛けます
- 「四爻変」ですから、本物の美・実力を追求します。
- 本日のテーマは、「生駒山系を望む」です。
〇「地域を楽しむ」
- 当地・四條畷は18.69㎢の狭い市域ですが、東西に長く広がっていて、東側を流れる一級河川・天野川で奈良県・生駒市と接しています。
- したがって市域の東部・田原地区からは、市域の東部を南北に貫いている生駒山系を。東側から望むことができます。
- たまに大阪市内からタクシーで、国道163号を東に走って頂き、清滝トンネルを抜けて田原地区の辺りまで行くと、運転手さんから「ここは奈良県ですか」と、聞かれることがあります。
- 「いいえ、ここは四條畷市で、まだ大阪府域内ですよ」と答えます。
〇「観る力を養う」
- さて、「生駒山系を望む」ですが、生駒山のことが書物に初めて登場するのが、わが国最古の歴史書であり正史の『日本書紀』です。
- この『日本書紀』の戊午の年(紀元前663年)の条、神日本磐余彦(かむやまといわれびこ・神武天皇)の東征に関する該当部分から、その口語訳を引いてみました。
「夏 四月九日 皇軍は兵を整えて徒歩で龍田に向かいました。しかし、道が狭く険しく隊列を組んで進む事ができませんでした。」
「そこでいったん引き返し、東の生駒山を越えて、中洲(うちつくに:大和)に進軍しようと思いました。」
「その時、その動きを聞いた長髄彦(ながすねひこ)は、『天神の御子らが来るというのは、私の国を奪うためだ。』と言って、全軍を動員して孔舎衛坂(くさえのさか)を遮断し、そこで開戦となりました。」
「その戦の中で、流矢(ながれや)が五瀬命(いつせのみこと)の肘に当たり、皇軍は進軍を続けることができなくなりました。」
- もちろん原文は漢文ですが、この時の神武天皇は、共に戦っている兄・五瀬命が、生駒山麓の河内地域を支配していた長髄彦の軍による攻撃で負傷したために、やむなく皇軍の撤退を命じます。
- また、『万葉集』(第20巻-4380)には、奈良時代にヤマト王権に仕えた防人(軍人ですね)・大田部三成(おおたべの みなり)が、755年(天平勝宝7年)、筑紫に派遣された際に詠んだ次の歌が『万葉集』に収録されています。
「難波門(なにはと:難波の港)を 榜ぎ(漕ぎ)出て見れば 神さぶる 生駒高嶺に 雲そたなびく」