易経で自分らしさを磨く

~『易経カード』を人生のシグナルに~

「旅の目的」

〇「今日の易占から」

  • 今日の易占は「火山旅」の「四爻変」でした。
  • 「旅」(りょ)は、何かを追い求めて外界に出ていくとき。謙虚に学ぶ姿勢と良きパートナーが必要です。 
  • 「三爻変」ですから、長く滞在できても居心地はイマイチです。目標が明確になっていないからでしょうか。
  • 本日のテーマは、「旅の目的」とします。

 

〇「地域を楽しむ」

  • 当地域・四條畷をまるごと学ぶ「なわて学」では、2018年(平成30年)の12月に『江戸期、貝原益軒が歩いたころの四條畷』をテーマに、講師の扇谷昭氏から興味深い話を楽しく聞く機会がありました。
  • 貝原益軒は、1630年(寛永7年)に生まれ、1714年(正徳4年)に84歳の長寿を全うした筑前福岡藩士で儒学者・教育者でした。「益軒」は晩年に改めた号です。
  • 益軒(当時の号は「損軒」?)60歳の1689年(元禄2年)2月に、京都八幡から田原・四條畷を通り、吉野往復の旅をしています。そして、同年5月に福岡に戻って写本『南遊記事』にまとめ、亡くなる前年の1713年(正徳3年)益軒84歳の時、版本「南遊紀行」として発行しています。
  • 『南遊紀行』には、当時の四條畷を旅したことが記されているとともに、随所に名所や風景などを描いた挿入図もあります。

 

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『南遊紀行』の挿入図(「なわて学第10号」から)

〇「観る力を養う」

  • 人々が旅をする「目的」については、娯楽や気分転換に限らず、「人生そのものが旅であり、また目的地のない現状逃避的な旅もある」といった声も聞こえますが、当時の貝原益軒がいかなる目的で、どのような旅をしていたのか観てみました。
  • さて益軒は、藩内では朱子学の講義や朝鮮通信使への対応、また佐賀藩との境界問題の解決など重責を担い、藩命により『黒田家譜』や59歳から手掛け80歳で完成させた『筑前国風土記』などの編纂にも貢献します。1699年、70歳で藩の役を退いて著述に専念しました。
  • 教育者としては、儒学のほか、封建道徳を説いた「益軒十訓」のうちで特に有名なのが「養生訓」ですが、また生涯にわたり公私共に多くの旅をした益軒は、10余りの紀行記を残しています。
  • 39歳の時、秋月藩の知人の医師の姪、当時17歳の初子と結婚し、妻も後に「東軒」と号して和歌を嗜みながら益軒に伴い、紀行文等に内助したといわれます。
  • 仲のよい夫婦で、どちらも病弱であったことから、貝原家の用薬日記には、しばしば漢方薬を調合していたことが記録されているようです。
  •  益軒の旅の目的は、まず前提に藩命による諸国の現地調査という公務があり、そして持ち前の「書物だけにとらわれず自分の足で歩き目で見、手で触り、あるいは口にすることで確かめる実証主義的な行動スタイル」が重なっていることがわかります。
  • また当時の社会環境の下で旅を続けることを考えると、病弱な身体を鍛えることも考慮しながら、益軒のパートナーであり記録助手として共に旅する妻の存在が、そこにあったのではないかと推察するのです。